「
ジャンケン文明論」(李御寧 (著))が、面白いので抜粋する。
切符売り場で考えたこと
新幹線は速い。いまでも世界最先端の科学技術を誇っている。しかし蒸気機関車が走っていた昔とあまり変わっていないものがある。「新幹線きっぷうりば」と大きく書かれている駅の案内板だ。
「売り場」とは、あくまでも売り手を中心にしたことばである。切符を買う乗客の立場では「買い場」のはずだ。何百万というお客さんが毎日切符を買っているのに、だれも「切符買い場」とはいわない。(中略)もっと困ったことは、買う人のほうにあるのかもしれない。「どこで切符を買えますか」と聞かないで、「どこで切符を売っていますか」というのだ。主体をすっかり失った自分に、慣れっこになっているからだ。
考えてみるとこれは小学校のころからはじまった習慣である。学生は学校に行って「教室」に入り、疑いもなく自分が習う本を「教科書」と呼んでいた。(中略)教室は学室であり、教科書は学科書であるからだ。これ一つだけでも、いかに学校が教える側に傾いているかがわかってくる。一時期イヴァン・イリッチがあのようにしつこく「脱学校」を唱えたのも無理はない。教える仕事に関わって暮らしている人が、アメリカだけで二千万人を超えるというのだから、学校は学生よりも、教える人のための制度に変わっていくというのだ。
マーケットは売る人と買う人の間にある。学校は教える先生と学ぶ学生の関係があってはじめて成り立つ。当然の話しであるが、立場によって両方の関係は断絶され、その一方だけが一人歩きをする。巨大化、大量化、官僚化していく近代文明のメカニズムが起こってくるのだ。
冷たい汽車
「教室」ということばに学生の姿が見えないように、「切符売り場」には乗客の顔がない。近代産業文明とともに現れた汽車は、もうのんきな村の乗合馬車ではないのだ。「鉄馬」と呼ばれていた冷たい列車は、人が乗っていも乗らなくても時刻表どおり出発する。そして決まった軌道の上を走り、一定の駅に停まる。乗客一人一人の面倒と事情にこだわってはおられないのだ。(中略)
夏目漱石は『草枕』(1906)で、「汽車ほど20世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。(中略)人は汽車に乗るという。余は積み込まれるという。人は汽車で行くという。余は運搬されるという。汽車ほど個性を軽視したものはない」と書いている。
学校も、学生一人一人の個性と能力にこだわっていない。あらかじめ設けられた制度に合わせて、小学校から大学の終点まで、学生たちを運んでいく。小、中、高、大にわたる教育課程は、ベルト・コンベアに合わせて動いている工場の流れ作業とよく似ている。学校でも、やはり品質管理のような試験を行い、パスしたものだけが卒業証書をもらうのだ。
ただ工場の製品と違うのは、不良品が出ても、アフターサービスやリコールの制度がないということだ。教科書の内容も、型にはまった工場のマニュアルと区別がつかない。直線型の綺麗な一本槍だ。だから「ガッコウ・アタマ」ということばが生まれてくる。社会に出て、教科書どおりにすると、すぐ愚か者扱いにされてしまう。
今の教育を受けた若者たちは、お見合いのときも一度に四人が目の前に並んでいないと、相手を選ぶことができまい、というジョークもある。四肢選択の○×式試験問題が見に染みついているからだというのだ。
エレベーターと昇降機
近代の高層ビルとともに登場したエレベーターは、そらに向かって垂直に走る列車である。エレベーターは「上げる」(elevate)という英語の動詞に、行為者をあらわす接尾語(-or)を付けたことばである。だからそれ以前の教会ラテン語では、地獄に落ちた罪人たちを引き揚げて、救ってくれる救世主を意味することばだった。アメリカではいまも、背を高く見せるためにつくった上げ底靴を、エレベーター・シューズと言っている。
だがエレベーターは上に昇るだけのものではない。下にも降るのだ。これか、あれか二者択一する線形的な思考では、昇ったり降ったりする正反対の動きを同時包むことが苦手だ。そこで「昇る」ほうをメインコンセプトにして、「降りる」ほうは無視して切り捨てる。その結果「エレベーター(上げるもの)に乗って降りていく」という途方もない言い方になってしまう。
英語に限った話しではない。エレベーターを意味するフランス語のアサンセール(ascenseur)も、ドイツ語のフェールシュツール(Fahrstuhl)も、みな上に上るという意味しかもっていない。エスカレーターが現れても、名前のつけ方には時代の区別がない。エスカレーターとは、感情が「エスカレートする」(高ぶる)といったときのことばと同じ意味だ。
幕末の日本の遣欧使節が、マルセーユではじめてエレベーターに案内されたとき、それを部屋と勘違いして「こんな小さな部屋に閉じ込めるとは何事だ」と憤慨、笑いものになったという。だが、エレベーターが日本に入ってきて、その片一方の名前がきちんと「昇降機」に変わったことがわかれば、笑うどころではない。
むしろ頭の固いのは西洋人のほうであり、今のアジア人だ。たしかに昇降機と呼んだ昔の人たちは、エレベーターの感覚とは違った目で見ている。その名のとおり、昇ったリ降りたりする両方の動きを同時に捉えていたのだ。中国でもエレベーターを電気の梯子という意味で「」と呼んでいたから、昇降の概念を含んでいる。
このようなネーミングの違いは、けっして偶然なものとはいえない。昇降機だけではなく、山偏に上と下の文字を合わせて「」という日本独特な国字をつくったのも、みな同じ見方である。それにたいして山を意味する英語のマウント(mountain)が「登る」「上がる」という動詞のマウント(mount)から来たことばであることを考えてみれば、すぐ納得がいくであろう。
フランス語に由来した英語のマウンテンには、エレベーターのように「登る」という一方的な意味しかない。前にも触れたように、エレベーターという記号は両面から主な片面だけを切りとったもので、排除的(exclusive)な直線形の思考を示している。これに対して、昇降機という名は、両面性を同時にあらわす包含的(inclusive)思考だ。
もうエレベータを昇降機と呼んでる人はない。日本では「和魂洋才」、中国、韓国では「東道西器」という言い方があるが、才と器が変われば、魂も道も一緒に変わるものだ。アジアの近代化を一口で言えば、昇降機からエレベーターへ記号のシステムが変わっていったことを意味する。
---- ま、こんな調子で本書は進行していくのであります。言語執着系のわたしとしては、これ系の本は大好きです(笑)。